墓参り
御無沙汰ですm(_ _)m
2月最初の日曜日、暖かい日和となりました。
今日は朝から母の墓参り。
私を筆頭に、母の子は出来の悪いのばかりで、
母には随分と嫌な思いをさせました。
学校で詫びることはあっても
褒められることなど無かったです。
ところが、その子供達は何の因果か?
そこそこに出来の良いのが揃い、
我が家の長男も、
灘、開成、桜蔭と並ぶ難関校に合格しました。
京都大学へ毎年一番多くの合格者を出しています。
母が生きていれば、泣いて喜んだと思います。
後10ケ月生きていれば、この世で聞かせてやれました。
亡くなる前々日に、この子に会いたいと言いました。
・・・・・
七人いる孫のなかで、最後まで同じ布団で
寝た子でしたから、なおさらです。
まあ、親馬鹿の自慢話しはくのくらいにして
本題です(^^ゞ
もちろん仏壇の母の位牌に合格の報告はするのですが、
そこに母の気配や存在を感じ得ないのです。
坊主の私が言うと、怒られそうですが、
これは理屈ではなく、感覚として、
母が居る(眠る)のは『お墓』なのです。
骨といえども肉体を埋葬しているところに
この世とあの世を結ぶ回線網があって、
墓の前に立ち、声に出して呼びかけて
始めて、思いが母に届くように思うのです。
つまり墓参りを終えないと、母に孫の合格を
伝えた気にはなれないのです。
お墓に参ることで得る、心や気持ちの満足感はあります。
そう思うと、安い買い物です。
墓地も墓石も随分と安くなりました。
それでも海外旅行や車やブランド品には使えるお金が、
親には使えない人が多いのです。
困ったものです・・・。
さて、
ともかく墓参りも終わり、従兄達とお楽しみのゲーム。
どこの家庭にでもある姿ですが、
そこでも同じことを思うのですよ(笑)
『この光景を母が見たら、泣いて喜んだ』と。